言葉遊びのジョーク

ジョークにもさまざまなタイプのものがあります。もっともオーソドックスなものとしては、言葉遊びとしてのジョークでしょう。それはある言葉と全然違う言葉を重ね合わせ、「音が似ている」ことからそれを当てはめるものです。いわゆる「ダジャレ」として認識されています。

このタイプのジョークはもっとも使いやすく、かつその場にもすぐ馴染むことができます。旧来から「親父ギャグ」としても定着しているものです。親父ギャグと聞いてしまうとなんだか低レベルで恥ずかしく感じてしまうかもしれませんが、これらは「冗談」、「ジョーク」の基本中の基本です。ダジャレを使いこなしてこそ、次のレベルに進むことができます。

もともと「言葉」はその「音」で判別するものです。人は生まれてから言葉を聞いて自然と覚えます。それは「音」と「意味」の組み合わせを周囲の「会話」から吸収し、自分の言葉として覚えるのです。誰もがそのようにして自分が使う「言葉」を覚えてきたのです。私たちの思考を形成するのも言葉であり、黙読したとしても言葉の「音」はイメージとして頭の中に響いているのです。そのように「音」が大前提の言葉であり、かつそれぞれが確固たる意味を持っているから、「音」を重ねてまったく違う言葉を突然用いるのが「面白い」と感じるのです。

それらはダジャレ、親父ギャグとして半ば周知されたものです。ダジャレを用いた瞬間に人は「ダジャレだ」とわかるものです。ですから、その言葉遊び自体が面白いなどということではなく、「その場でダジャレを言った」という事実が面白いのであって、ダジャレを追求することは特段意味を持ちません。ただ、それらの音による言葉遊びも、プロの芸人などでは長文になったり、似た音のまったく違う文章にさせたりと、聞いていて関心するようなものにまで昇華させることができています。何事も極めればひとつの「芸術」として扱われる程にまで成長させることができるものなのですが、素人ではそこまでは狙わなくても良いでしょう。

ポイントは「この張り詰めた空気の中でダジャレを口にした」という「意外性」であり、発言したダジャレの意味よりも「ここで言うか」という「意外性」、そして「この人がこんなことを」という「意外性」を狙うものでしょう。ですから、日頃からダジャレばかりを口にしていると、「またダジャレか」などと思われたり、「いつもつまらないことを言う」と思われたり逆効果になってしまうことの方が多いのです。

音と音で遊ぶシンプルなジョークであるので、ある意味言葉が話せれば「誰でも」使うことができるのです。ですから、そのジョークの意味ではなく、「意外性」だけを狙う、そして頻繁には使わないようにするということで「一撃必殺」のジョークとして扱いましょう。頻繁にダジャレを口にしていると、意外性もなにもなくなってしまいます。そして「くだらない人」とレッテルを貼られてしまうことにもなります。思いついたダジャレはずっと懐にしまっておいて、「ここぞ」という時にタイミングよく使うようにしたいものです。普段真面目に振舞っている人であればあるほど、それは効果的に作用することになるでしょう。