自分を押し付けないことが大切

自分の言葉を聞いてほしいあまり、自分の存在を周囲に対して押し付けてしまうような人もいます。自分のことはそっとしておいてほしいと考える人と、自分のことを中心に見てほしい人、さまざまな人がいるのです。

自分がどのように見られているのかを考えすぎて、「外に出たくない」とまで思いつめる人もいます。ですが、それは得策ではなく、コミュニケーションから逃げることになります。私たちは生きている限りコミュニケーションからは逃げられないものです。自分一人だけではどうやっても生活を成り立たせることはできないのです。私たちは自分だけでは「衣食住」すべてをまかなうことができません。私たちはそれぞれがそれぞれの役割を果たし、自分の立場を得て対価を得ているのです。その対価を、自分が必要としているものに対して消費します。それも一種のコミュニケーションです。「経済活動」そのものが、私たちが生きるためのコミュニケーションであるということです。

それらの取り組みのなかで、私たちは嫌でも「誰か」を認識することになります。その「誰か」は、たとえ顔が見えなくても「そこに存在している」わけです。たとえ直接会って話していなくても、言葉をかわしたわけではなくても、確実にそこにいます。それが「社会」です。相手がこちらのことを知っていても、知らなくても、相手は確実に存在しているのです。それは相手から見たこちら側も同じです。

コミュニケーションの本質は、他者に対して「存在する」と認めることでもあります。自分がここにいて、相手がそこにいて、なにか影響を及ぼし合うことが、コミュニケーションの原点です。存在していて意味のない人間はいないものです。目立つ人、地味な人、よくしゃべる人、口数が少ない人、さまざまな人が集まってつくられているのがこの社会です。それを理解していれば、別に自分のハナシだけを聞いてほしいだとか、目立ちたいという欲求はその場限りだけのものであることがわかるでしょう。

その場で目立ったとしても、その場で誰も気づかないような存在であったとしても、私たちは誰かに影響を与えているものです。なんらかの形で社会に関わり、なんらかの形で誰かに影響を与えています。だから、「自分だけか特別」などとは思いこまない方がいいのです。目立ちたいという気持ちや、その場の中心にいたいという気持ちは、ただの「欲求」です。その場限りのものです。それが常に続いてしまうと、やがて誰もが疎ましく思ってしまうかもしれません。「目立ちたがり屋」であるほど、人から信頼してもらえないこともあるのです。

コミュニケーションにおいて大切なことは「相手のハナシも聞く」ということです。自分のことだけをペラペラ話すようでは、やがてジョークどころか本当に必要なことまで誰にも聞いてもらえなくなってしまうかもしれません。そのような事態にならないためにも、「控えめ」ということが大切かもしれません。ジョークを聞いてほしい、自分のハナシだけを聞いてほしいという気持ちは、ただの「エゴ」であると理解しましょう。そして、人はだれもが自分の都合の良いようには動いてくれないものです。自分の都合の良いようには解釈してくれないものなのです。