冗談とジョークは同じ?

「ジョーク」は、人がそれと「わかる」ものでなければいけません。対して人が「本当かどうか」と悩んでしまい、あとから「冗談だよ」と明かすものは、実はジョークではなく、「冗談」になるのです。

その差は何かというと、「今この人はジョークを口にしてこちらを楽しませようとしている」とわかるものがジョークで、ハナシを聞いている間は本当かどうかわからないものが「結果的に冗談だった」という違いです。それは聞く側にとっては「精神衛生上よくない」ものであることもしばしばあります。

よく「ドッキリ」という企画があります。その人にとっては本当のことであるとしか思えない状況を作りだし、その人を「騙して」驚かすというものです。結果的にはそれは「質の悪い冗談」であり、まわりはそれを見て喜ぶのですが、それは騙された本人にとってはあまり気持ちの良い物ではないことは間違いありません。それは「自分が笑いのネタにされた」というものであり、騙した側は「してやったり」ではあるものの、騙された方はたまったものではないのです。

それはテレビなどの企画ではあればまだいいのです。それが「仕事」として成立するのであれば、本人も最終的には納得するのです。ですが、それを私たちの日常に組み込んでしまうと騙された側は不愉快な気持ちでいっぱいです。まわりの人が騙された自分の様子を見て笑っているということは、とてもではないですが気持ちの良い物ではないのです。それは「ジョーク」ではなく「冗談」です。しかも「質が悪い冗談」ということです。対してジョークは万人に対して明るい話題や面白いハナシを提供するものであり、誰も不幸になっていません。

私たちが社会生活で用いるのであれば、それは「質の悪い冗談」ではなく、「誰もが笑えるジョーク」が求められているのです。誰もがそのハナシを聞いて笑顔になり、前向きな思考を取り戻すことができることが、一番いいのです。誰も傷つかず、誰も笑われない、ただそのハナシを中心にして会話に華が咲いたり、誰かが元気になったりすればいいのです。

それが「大人のたしなみ」としてのジョークであり、私たちに求められる「マナーのある笑い」です。私たちはジョークを通じて心を柔らかくしたり、お互いの心の距離を縮めたりします。それは健全でなければいけません。そのジョークによって誰かが傷つくというようなことは、あってはいけないのです。それは「不幸な冗談」であり、言葉の使い方としては間違っているものです。

言葉は不思議なもので、私たちを元気にしたり、逆にモチベーションを下げたりします。私たちは言葉によって踊らされているようなものです。ある言葉を受けて頭の中でまた言葉で考えたり、言葉で返して会話したりします。私たちにとって「言葉」とは、「目には見えないけれど確実にそこにある」ものです。私たちはそれらの言葉に囲まれて生きているのです。私たちが健全に生きるためには、健全に言葉を使う必要があります。悪い言葉の使い方は、誰かが傷つくものです。そのようなことを理解し、大人らしく言葉を使うこと、それがインテリジェンスです。それがマナーです。誰かが傷つく冗談は、ほめられたものではないのです。