世相によってウケるものが違う

世の中の様子、それが「世相」です。その時に社会的な状況はどうなっているのか、世の中のトレンド、傾向はどうなのか、つまり「今話題になることはなにか」、「今問題になっていることは何か」ということです。それによって、刺さるジョークとスベるジョークがあるのです。

例えば先般発生した大災害、震災のことは未だ問題が顕在化したままとなっています。私たちはそれらの問題を真摯に受け止める必要があります。原発のことや避難し続けている方々のことを、同じ社会に生きる人間として自分のこととして受け止める必要があります。誰もが関心を持っています。誰もが知っていることです。

だからといって、その話題をジョークにしたりするのは「タブー」です。「不謹慎」というものです。私たちは共通認識としての「倫理」があります。「道徳」があります。それは「人に良い事をするのは善行だ」というシンプルな点から派生した考えでもあります。その中で、多くの方が亡くなってしまった震災を風刺するのは「タブー」だということも暗黙のうちに了解されているものなのです。誰もが関心を持っていることではあります。誰もが話しをすれば自分なりの考えを持っていることではあります。ただ、「笑えない」のです。

世の中には「風刺していいことと悪いこと」があります。誰もが「不条理だ」と思っているような政治政策、社会情勢などは風刺することで、大衆意識としてカタルシスになり得ます。そのようなアプローチで笑いをとる芸人も沢山います。ただ、「触れてはいけないもの、笑ってはけないもの」があるのです。それを社会的な常識として「認識できているかどうか」ということが重要です。それをわきまえていることは、「社会人」として持ち合わせていなければいけない常識を持っているかどうかということです。

ジョークは日常で使う言葉の「先」にあるものです。特段必要はないけれど、とても重要なものです。そのような事柄を口走るのですから、誰かが傷つかないか、不快にさせないかということはじっくりと考える必要があります。あるいは、考えるまでもなく認識しておく必要があります。それが「ジョークを使う際のマナー」であり、「ジョークを使う資格」でもあります。

誰かを貶めたり、禁忌に触れたりすることで注目を得るのは卑怯なことであり、誰も「笑えません」。それが「世相によってウケることが違う」ということです。社会のことをよく知っているかどうか、ひとりよがりになっていないかどうか、「共感」を得ることができるかどうか、自然とわきまえることができて始めて「ジョーク」にしていいのです。誰かの悪口であったり、痛ましい事件を面白おかしく語ったりすることは、卑怯です。

世相を知るということは、社会を知るということでもあります。つまり、社会に感心を持つということです。社会に感心を持つことはこの社会に生きている人にとっては当たり前のことです。自分のまわりのことだけではなく、社会人として必要な知識があるかどうか、マナーがあるかどうか、ということは人から評価されてしまいます。「この人は非常識だ」と捉えられてしまえば、いつの間にか敬遠されてしまうことになるでしょう。