言葉を使いこなせるからジョークが使える

ジョークというものは「言葉」を本来の目的よりも「発展」させたものです。いわば言葉の「応用」というものです。誰かとコミュニケーションをとったり、情報を伝達することができたりすることが、その「言葉」の本来の使命です。

私たちの思考は母国語によって形成されています。それは「言葉」です。言葉自体はただの音の響きであったり、記された記号であったりします。それは理解してはじめて「意味」をなすものです。私たちはそれぞれが共通認識としての「言葉」を持っているため、コミュニケーションが成り立ちます。情報伝達が成り立つのです。私たちの社会はコミュニケーションと情報伝達によって成立しているようなものです。また、発展してきたようなものです。

私たちが使う言葉は、時には相手に何かを説明したり、相手と議論したりする時に用いられます。挨拶自体も言葉です。自分の感情もある程度は言葉で表すことができます。その時身体が感じている状態、「暑い」だとか「寒い」というようなことも、言葉で表現することができます。私たちの思考自体が「言葉」で形成されているので、言葉で表せないものは「得体のしれない」、或いは「言葉以上の」ものであるということです。

ジョークは人の感性を刺激し、高ぶらせるものです。やがてその感情のたかぶりは、「笑う」という肉体反応で返ってくるものです。「笑う」ということは理屈ではなく、そのように反応せざるをえないという自然な反応なのです。私たちはこのように「言葉」を応用することによって人の感情を動かすことができるのです。それは相手に対して失礼なことばかりをいってみて「怒り」を誘ったり、相手が悲しむようなことばかりを言って相手を悲しませたりと、さまざまに応用できるのです。

コミュニケーション自体が人間の行うものですから、私たちの持つ「感情」が作用するのは当然です。私たちの脳はコンピュータではなく、血の通った生物で、唯一無二の存在なのです。私たちは日々言葉を応用し、また言葉に踊らされて生きているのです。

ジョークはそんな言葉の完全なる応用です。そこになくてもいいはずの「言葉」を、あえてその場に投じることで人の感情を左右するものです。笑うということはとても建設的な作用を持っていて、仕事をしている場合は、その「笑い」によって前向きなムードになったり、効率があがったりするものです。ジョークとしてそこに生まれた言葉は、本来はそこには無くてもいいもののはずですが、それが人に対して有効に作用し、栄養ドリンクなど比べ物にならないくらいの効果を発揮することになるのです。そのようなジョークは、まさに「言葉の魔法」であるといってもいいのではないでしょうか。

なくてもいいはずだった、いわば「くだらない言葉」、「ムダな言葉」が、その場で人の感情を動かすことができれば、それだけで人は何かを得ることになるのです。私たちはそのようなことをわざわざ考えてジョークを使っているわけではないのですが、結果としてそのような現象が起こるのです。私たちがいかに人間であるか、感情に左右される生き物であるかがわかる現象です。そこにジョークがなかったら、笑いがなかったら、もしかすると生まれなかった発想があるかもしれません。