ジョークが言い合える仲とは

私たちは自然に情報を取捨選択しています。それは無意識化で行われていることであり、当人は覚えていないことです。私たちは不思議と「情報源」を評価しているのです。「ここの情報は間違いない」と感じることができれば、の情報をすんなりと受け入れます。

「情報源」としてもっとも信頼がおけるのは「テレビのニュース」です。社会的にも「メディア」として信頼されたものであり、「責任ある情報発信」を心がけているということが社会通念として認知されているからです。ニュースの情報が「ウソ」であれば、この世の中は悲惨です。私たちは一寸足りとも社会の本質を見ることができなくなってしまいます。ですから、「責任」としての「報道」があり、「今世の中はこうなっているんだ」ということを私たちに伝える「義務」があります。社会の動きを知っておくということは、社会人としてのたしなみでもあります。私たちはそのようにして社会を知り、また「社会の一部」として活動していくのです。

これが「ジョーク」になると、実は情報源はどうでもよく、どのような内容であっても「笑い飛ばす」のですから、関係ないように思えます。ですが、私たちは本能的に「価値」を求めます。同じ料理でもより高い店の方が価値あるもののように思えるのです。「モノ」も同じです。本質的には同じ機能を持ったものでも、私たちはより「信頼性」を求めます。それは「メーカー」であったり、「販売店」であったりします。それはその「モノ」に備わっている本質的な価値とは違う次元の、ある種の「満足感」ともいえる次元の要素です。路地裏のみすぼらしい店で買うiPhoneは、もしかしたらニセモノかもしれないと思うのです。

そのように「同じ物事」でも、それを取り扱う人や媒体、店舗やブランドによって、私たちの受け取り方はだいぶ変わってくるのです。これが「対人間」になると、更に顕著です。「ジョークを披露しあえる仲」というのは、心と心が打ち解けた関係でもあります。私たちは自然と交流を持つ相手を選んでいるのかもしれません。私たちの人間関係は広くて狭いものです。仕事上の付き合いなのか、それとも長く続く友人なのか、どんなハナシでもできるような間柄の人というのは実はそんなに多くないはずです。

ジョークが言い合えるほどの仲でも、悩みを打ち明けるほどではなかったり、楽しく会話しているようでも相手のことを何もしらなかったりするものです。人間関係はコンピュータープログラムよりも複雑です。私たちはそのような複雑なコミュニティに、時にはそれが重ねあうカタチで参画しているのです。軽いジョークを言い合える仲である人は、比較的多いかもしれません。「笑顔」というのは相手を安心させる効果もあります。「楽しく話せる」ということは、実は少しずつ心のしこりを取り除く効果があるのです。話すこと、笑うことはカタルシスになるのです。

社交的な人、内向的な人、知らない人にはとことん冷たい人、誰にでも暖かく接する人、さまざまな人がいるものですが、どのような人であっても、ジョークを交えて話し、笑顔と笑顔で接すれば、さらに心の距離は近づいていくのです。そのようにしながら、私たちは日々コミュニケーションしているのです。