国によって嗜好が違う

私たちが用いている「日本語」は、とても親切な言語です。ひとつの物事に対してさまざまな言い回しがあり、単語の数、熟語の数もとても多いのです。世界の代表的な言語である「英語」では、このようにはいかないのです。

英語はとてもシンプルな言語です。英語を少し学んだことがある人ならわかると思うのですが、英語はそれだけではなかなか本当の意味を相手に伝えることが難しいものです。自分の考えを相手に伝えるためには、自分の気持ちを的確に言葉に込めるとともに、その感情を相手に伝えるための声音であったり、トーンであったり、そのようなものが必要です。私たちの目から見て欧米人が「オーバー」に見えるのは、言語がシンプルであるからです。そのようにしなければ、自分の思いを的確に相手に伝えることができないからです。

対して私たちが用いている「日本語」はとても恵まれています。言葉が意味を豊富に持ち、またひとつの事柄に対する表現方法も沢山あるのです。だから私たちは感情を表に出さなくても、相手にそれを伝えることができます。私たちが世界から「勤勉である」とか、「奥ゆかしい」と評されるのは、そのような「便利な言葉」を使いこなすことが出来るからでもあります。私たちは「言葉」に恵まれた人種です。

そのように、国によって用いる言葉が違います。国際化がなされ、英語を用いて他国の人と触れ合う機会が増えてはいるものの、私たちが日本人でいる限り、思考の根本は日本語です。また、他国の人はそれぞれの母国語で思考するのです。ジョークは人を笑わせるという、「感情」を左右するものでもあります。ですから、やはりジョークもそれぞれの国で通用するものが違うのです。それぞれの国の思考に突き刺さるものが違うからです。それは「価値観」の違いでもあり、「文化」の違いといってもいいでしょう。それぞれの文化で、それぞれが「面白い」、「笑える」と感じることがあり、そこに突き刺さるから「ジョーク」なのです。

それぞれの文化、それぞれの人に適したジョークがあります。また、「言葉」自体が時代と共に変遷するものでもあります。昔はあったのに今はないもの、今はあるけれど昔はなかったもの、さまざまなのです。「モノ」がある限りそれを表す言葉があります。例えば「携帯」といえば「ガラケー」といわれるもの、「スマホ」といえばiPhoneを代表する高機能なもの、という具合です。

ですから時代とともに「ジョーク」も姿を変えます。「落語」は楽しいものですが、その多くが「古典」です。本来は昔の実生活に根ざしたものであったのですが、現代の私たちでは「共感」を得ることはなかなか難しいものです。つまり、ジョークを使いこなすということは、その「時代」をしっかりと捉えているということでもあります。そう、ジョークには「インテリジェンス」さが必要なのです。「いつもくだらないことを言っている」と評される「ムードメーカー」は、実はその次代を把握した最先端の人材であるともいえるのです。

ジョークを使いこなすためには、その時代、その時、その場、その空気を的確に把握している必要があり、それは容易なことではないのです。私たちが身近に感じるジョークは、とても高度な「言葉」であるということを覚えておきましょう。