ジョークを言える余裕を持つこと

ジョークが言えることというのは、「心に余裕があること」でもあります。話しの前後を把握していて、その場にいる人たちのこともある程度わかっている状態です。

そのような状態でなければ、逆に言えばジョークを交えて会話することは難しいのかもしれません。「その場を把握している」ということが、ジョークを言えるための最低限の土壌でもあります。それは「その会話に対する余裕」ということです。緊張していては最適なタイミングではジョークは使えないものでしょう。

私たちは話す相手と打ち解けると、「余計なこと」を考えなくなります。相手のことを知らないうちは、「この人はどんな人なんだろう」ということや、「自分はこの人にどう見られているのか」ということを考えるものです。それは会話本編とは実は関係ないレベルのことで、「相手と自分の関係」を探るものでもあるのです。そのようなことを考えているうちに、いつの間にか会話は終わっていたりします。また、社会的な立場、組織的な立場が違えば相手となかなか心を割って話すことも難しいでしょう。相手に対して失言してはいけない、相手に対して失礼な態度をとってはいけないと、緊張してしまうものです。そのような状態では、「ジョーク」などはいえるはずもないのです。会話とは別の意識が働いてしまい、「楽しくない会話」になってしまいます。

私たちは本能的にそのようなことを避けようとします。いわゆる「苦手」という意識を持ってしまうと、そのようなことは避けようとするのです。だから私たちは「人を選ぶ」のです。「話しやすい人」、「気をつかわなくても良い人」を自然に選んで、そのような人とだけ交流を持とうとします。そのような相手とであれば、心に余裕があります。ジョークのひとつも言い合える状態になるでしょう。

それは会議の場でもそうです。同じチーム内の会議などでは、よく知ったメンバーが顔をあわせ、何も緊張しない状態でやりとりが繰り広げられます。そのような状況ではジョークを交えながら、開放的になった意識が次々とアイディアを呼び出すものです。対して上役との会議などでは、自然と「自分の評価」を意識してしまい、「クリティカルな発言で評価を得なければ」と考え、視野が狭くなり、思考が限定され、「ジョークなどとんでもない」ということになるのです。

それは私たちが「その場」に順応できる能力を持っているからで、「空気」を読むことができるからです。それが私たちの「社会性」です。社会はさまざまな様相を私たちに見せつけます。さまざまな状況を私たちに与えることになります。そのような状況を乗り越えることで成長しますし、そのような状況を経験することでまた新しい「知恵」を身につけるものです。

ただ、どのような時でも、実際に「言うのかどうか」は別にして「ジョークが思い浮かぶ」ほどの余裕を持ちたいものです。真剣な場でも、くだけた場でも、いろいろな方向からその物事を考えることができる心の余裕が私たちには必要です。それによって私たちはさらに広い視野と、新たな発見を得ることができます。「ジョーク」は、その「新しい発見」の「シッポ」のようなものです。