深く考えすぎると逆効果

私たち人間の美徳は、「考えること」でもあります。考える頭があるから、さまざまなことを合理的に判断します。時間が限られていることを知っているから、「本当に有効なもの」を真剣に考えるのです。

ただ、ジョークにいたってはそのような「考える」ことが逆効果になってしまうこともあるかもしれません。私たちの本能に訴えかけるような、感情が揺さぶられるようなものは実は「理屈」ではなく、自然と感情が昂ぶり、身体の反応として起こってしまうものです。「笑う」ということも本能的なものです。「楽しい」や、「悲しい」といった感情は計算されるものではなく、理屈では整理できないものなのです。

人を悲しませたり、楽しませたり、怒らせたりすることはある程度は計算することはできます。「こんなことを言うとあの人は悲しむだろう」ということや、「こんなことを言うとあの人は怒るだろう」ということはあらかじめ、「ある程度」は想像できるものなのです。また、計算することによって相手を陥れることもできるでしょう。

ただ、やはり人間は「その時」になってみないとわからないものです。私たちが「こうだろう」と考えたことは実は相手にとってなんでもないようなものであったり、その逆で大きな影響を及ぼしたりするものです。考えた結果と違うということは、とても沢山あるのです。ジョークの上手い人は「頭の回転」も速い人であることが多いのですが、それでも自分の言葉がどれくらいの人を笑わすことができるのかなどということは考えることができないのです。考えたとしても、それは「ムダ」な計算であるのです。

だからこそ「笑い」は尊いものです。「ジョーク」は尊いものなのです。その瞬間にしか結果がわからないようなものであるから、人はさまざまな趣向を凝らして、またネタを数多く容易するものです。もしかするとその人の「天気」にも人の感情は左右されます。その日隣に座っている人によっても影響があるのかもしれません。そのようなさまざまな要因があるから、「笑いの場」というものは唯一無二であるのです。

同じことが二度と再現できないのが「笑い」です。その場の「空気」は、その場にいるすべての人がつくりだしているものだからです。それは「その場」、「その時」にならないとわからないものなのです。「一瞬」が芸術になるということです。「一瞬」が、その場にいた多くの方にとって記憶に刻みつけられるような瞬間であれば、それは喩えようもない「価値」を持つことになるのです。

ひとつのジョークがその場を救うことが沢山あります。それはプロの現場でも、私たちの一般社会でも同じです。ただ、その瞬間はあらかじめ計算できるようなことは少ないもので、その場になってみないとわかりません。私たちは空気を読みながら、それがどれだけ相手に「刺さるか」ということを考えながら、ジョークを考えていきます。それは人を傷つけないか、みんながわかってくれるか、ということをある程度は考えたものではあるものの、実際に披露するまではわからないのです。

誰でも簡単に笑うような「方程式」があれば、誰でもお笑い芸人になれます。ですが「そんなものはない」ということです。