話すということは人間の基本

数あるコミュニケーションのなかでも、「話す」ということはより具体的に自分の思いや考えを相手に伝えることができます。私たちは「話す」という行為を主軸に生きているといってもいいでしょう。

私たちの生活は必ず「誰か」と関わるものです。「誰か」とは特定できる第三者ではなく、不特定多数の第三者です。テレビをつければ自分ではない人が話しているものです。私たちはそれを見て情報を得たり楽しんだりします。また、雑誌を開けば自分ではない誰かが記した記事が並んでいます。インターネットに接続すれば自分ではない誰かが用意したコンテンツを参照することができるのです。

私たちはそれぞれが自分ではない誰かの意思を感じながら生きているものなのです。そして知らず知らずのうちに、自分の意思を誰かに伝えているものです。人間として「生きる」ということ自体が「コミュニケーション」であるともいえるのです。そのようにして私たちは誰か関わり合いながら、互いに影響を及ぼしながら生きています。

そのコミュニケーションのなかでも「話す」ということはもっともオーソドックスな方法です。一日に一度も言葉を発することがないという人も、もしかするといるかもしれません。ですが、そのような人でも「誰かの言葉を聞かない」ということはないのではないでしょうか。街に出れば誰かの話す声が聞こえます。テレビやラジオをつければさまざまな会話が飛び交っています。そのような「声」は、私たちが持つ情報発信方法のなかでも最も優れた方法です。「言葉」を理解するようになるということは、その極めて高度な情報交換を理解することができるようになるということです。私たちの思考自体も「言葉」で形成されています。「怒り」や「悲しみ」、そして「楽しい」という気持ちなど、精神的な作用も「言葉」に置き換えて自分で納得することができるものなのです。

「ジョーク」とは、それらのいわば「人間としての基本」である「言葉」、「話す」という行為を応用して人を楽しませるものなのです。私たちの文化、文明を発展させた「言葉」というツール、それも人と人の共通認識としての「ツール」を、相手が意図もしないような方法で応用し、実際に聴かせることで、相手の心を和ませたり、その場の空気を和ませたりできるものなのです。私たちが用いている「言葉」は、それ自体には「意味」などなく、何の原理もなく、私たちがその音の並び、記号の並びに対して「意味と価値」を共通で持っているから、「言葉」として成立しているのです。それは誰もが学ぶもので、誰もが使いこなせるようになるものです。

ジョークとはそのような言葉を自在に操り、自分の発言ひとつでその場にいる人の「心」を動かせるような「スキル」であるともいえます。言葉自体には物理的な力はないものですが、それを受けて、理解して、実際に行動する人がいるとすればそれは「声を発する」こと以上の物理的な作用をもたらすことになるのです。言葉を使いこなす、言葉を考えることで、私たちは日々の暮らしを豊かにすることができます。いい言葉も悪い言葉もすべて、私たちが「意味」を共通認識として理解しているから価値があるのです。