言葉で場を変えるチカラ、それがジョーク

言葉にはひとつひとつ余すこと無く、その言葉が秘めている「意味」があります。そしてその「意味」には多かれ少なかれ「チカラ」があります。それは人に対して作用するもので、理解しなければ意味がないものではあります。

私たちはひとつの社会で共通の言語を用いています。ひとつの国では、母国語として使いこなす言葉は共通であるのです。その共通認識として扱う言葉で、思考すらも形成し、それを相手に伝えたい際には「口に出して」声として発することで、それを聞いた人が理解した瞬間に「コミュニケーション」が成立します。言葉を形にすると「文字」になり、文字が残る以上は誰かが「読める」のです。誰かが読んで理解した瞬間に、それは記号から言葉に変わるといってもいいかもしれません。

異国の言語は、確かに「言語である」とはわかっていても、それを理解しない限りは意味不明な音の並び、記号の配列にしかなりません。そこに何かが記されていることは分かったとしても、理解することができなければ、それは「無い」ことと同じなのです。ひとつの社会は、同じ言葉を共有しているから存在が可能なものであって、同じ言葉を共有しているから必要な情報を共有できるものなのです。それは私たちが持つ「知識」と「知恵」を集約するものであり、一代では築きあげることができない「文明」を継承していくためには欠かせないものでもあります。

「教育」も言葉がなければ意味をなしません。教育という行為自体ができなくなります。成長するうえで世の中の原理原則を体系的に学ぶことができるのが現在の社会であり、それによって私たちは実社会で役に立つ人材に成長することができます。そのように「言葉」は私たち人間に対して目には見えない、それでいて明らかな「チカラ」を持っているのです。ひとつひとつに意味があり、それを理解した瞬間になんらかのフィードバックが、私たちの思考から発生するものなのです。

ジョークも多分に漏れず、そのようなチカラです。それは私たちの感性、その中の共通認識として備えている部分が創りだす場の雰囲気、場の空気を一変させるほどのものでもあります。そもそも「場の空気」などというものは私たちが勝手に共通理解として作り上げているにすぎません。自然的な、物理的な作用はそこには存在していないのです。それでも私たちはその場の雰囲気や空気を敏感に感じ取り、重要視するものです。それは自分の感覚がそう捉えていて、他の誰かも同じように感じているからでしょう。

そのような「感覚」でも生きている私たちにとって、予想もつかないジョークがその場に飛び出ることはとても影響力のあることです。自分の予想に反した言葉がその場に踊り出ることで、その場が一変し、硬直していた問題がほぐれることも多々あるからです。ジョークがなくても別に死にはしません。むしろ時と場合によっては「不謹慎」であることすらあるでしょう。そのような「不謹慎だ」ということを人に感じさせることもその言葉の「チカラ」です。

そのように言葉はそれを理解する人がいる限り、何らかの影響を与えるものとしてそこに存在することになるのです。誰かが理解できる限り、なんらかの影響を与えるものとして用いられることになるのです。人に影響を与える、人を動かすチカラがあるということを念頭において、ジョークを用いることが大切なのです。